読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる
西成出身京大生。考えたことを共有するため、意見交換の下準備、知らない人に話しかけてもらうためのセルフメディアです。

好奇心と独学力に重点を置いた教育モデル

本来高校までの教育とは「いかに学ぶか、なぜ学ぶか」を身につけるためにあるはずだ。さらに学ぶことに対する好奇心を伸ばし、人生において学び続けるために、独立した思考と協調性を身につけることが目的とされるはずだ。(最も自分でかんがえる力を持たない従順な国民を作り出したいというならば別だが。)しかし、現在の教育過程ではそれは十分には実現されていない。
 まず、日本の教育における問題点として世間一般で問題に上がることとして、知識重視の詰め込み学習や読み書き重視の英語教育など、多くの問題点が挙げられているが、それ以上に深刻であり、最優先であるのは間違い無く学生の勉強に対する価値観である。日本の教育において学問とはテストのためのものと言っても過言でないほどに手段化している。つまり、本来喜びを見出しうる知的営みである学問が、習熟度を図るための手段であるテストと立ち位置が逆転してしまっているのだ。それは表面上では教師からは見てもわからないし、生徒たちも自覚していないだろうが、僕が客観的に見たところで確実に言えることは、生徒たちにとって学問はどうしてもやりたい!と思う対象では決してないということだ。これは認知学的にも、動機付けという観点から見て非常に非効率であると思われる。これは教育カリキュラムどうこうの問題ではなく、日本社会に通底する価値観であろうと思う。そこには、勉強を必死にやるのは「かっこ悪い」という共通認識があり、「ガリ勉」というのは軽蔑の対象、試験前には最小限の勉強で”コスパのいい”点数を取ることが美徳とされる。この価値観は手段・義務としての学問という価値観を生み、逆もまた成り立ち、負のスパイラルが生み出されている。それに対して中国やインド、アメリカでは多くの学生が自由に学問を楽しみ、大学卒業後は数々のテクノロジーを生み、世界の経済と技術を引っ張っているのだ。日本が優秀な人材を他の国と比べてうまく輩出できず、長い間経済停滞の中にいるのは教育制度、その中でもこの学問に対する価値観というところに根本的な原因があると僕は考える。このスパイラルから抜け出すために、まずは義務教育並びに高校教育の中で学問の魅力と楽しさに気づかせるという事を教育者側が意識し、授業の内容を変えるべきである。興味を持たせるという事に多くの時間を割く事は結果的に生徒の学力につながるのは他国の教育制度を見ても、動機付けの観点からも間違いないのである。
次に、学問に対する価値観と同様、いやそれ以上に重要なのが「独学力」である。現在の教育では、教授型の受動的な授業形式が中心であり、家庭学習さえも何をするかが決められる場合が多い。さらには家に帰ってからも塾に通い、与えられた課題をこなすといったことが一般的な高校生の学習習慣であろう。つまり、生徒たちは三年間にわたって与えられた課題で、かつ答えが決まっているようなものを当然のように文句も言わず、勤勉にこなして、そうやって身につけた「合わせに行く能力」を持って大学に入っていくのである。しかし、大学に入ると突然のように放り出され、自分で何をするかを決め、自立して学習することが求められる。これこそが高校と大学とのギャップを学生たちに感じさせ、結局大学でもテストだけパスして、あとは遊んだりバイトしたりして適当に卒業しよう、という堕落に導くのである。そこでも学問は手段・義務に成り下がり、大学は就職のための手段として捉えられる。しかし、社会に出てからもずっと人生というのは学びの連続である。そこになって初めて彼らの独学力の欠落が露見する。人生において学び続ける力はこの情報社会においては今まで以上に求められる力であり、学ぶ力のないものは機械に職を奪われていくだろう。その力をつけるべき場所こそが高校という場所ではないのか。そのためには現在の受動的な教育を見直す必要がある。しかし、いきなり野放しにするべきでは決してない。学校、教師がすべきことは彼らにある程度の思考、学習方法の枠を与えつつ、家庭学習を通して彼ら独自の独学スタイルを身につけていくことをサポートすることである。高校に入学してすぐは、彼らにはまだ独学方法というのはほとんど身についていないから、ゼロから自分で学習法を編み出せと言われても、彼らは非効率な勉強法を身につけてしまいかねないし、それによって学問に対する興味を失ってしまうかもしれない。だからこそ、この「枠を与える」ということが重要なのである。他校の生徒の話を聞いていても、家庭学習は与えられた課題をただこなすだけで終わるので、自分で考えて学習するゆとりが与えられていないのだ。理想としては、単元だけを指定し、どうやって学習するかは生徒たちが自分で決めるように持っていけるならば良いだろう。
 ここで、これらの「好奇心を持たせる」「独学力を磨く」ことを可能にするための方法と、すべての科目の授業において効果を上げることができ、かつ制度の変更を伴わない一つの授業形式のモデルを提案したいと思う。それは好奇心を伸ばし、自分で考える力を身につけるためのものだ。要約すると、もっとも重要なのは学問の魅力、そしてなぜそれを学ぶかということを三年間を通して教え続け、生徒たちに自分で考える機会をもたせ、教師としてはそれを補助するという形にすることで、自主的に学問を楽しませるということをすべきである。
 まず、好奇心を持たせるための方法を紹介する。その分野がどのようなものであるかの展望がなければ、つまり得体がわからなければそれに興味を持つことは難しい。どこに行き着くことができるのかをある程度知らないと、それを積極的に学ぶ意思は弱くなってしまう。これは人生のでどんな趣味や仕事に対しても言えることである。学問も人生における一つの営みとして捉えるべきであって、義務のようなものであってはならないのだ。ここで、学問の正体を、楽しさを生徒が知るための方法として、どの科目も各学年の初めの数回の授業で、「その科目をなぜ学ぶのか」「どのように活かされるのか」ということを説明する必要がある。おそらくこの初めの紹介がなくても、これまでそうだったように生徒は何も考えず当たり前のように学習を三年間続けるだろうが、「学ぶ理由」を知ることによって、好奇心を持って「なぜ」を追求するようになり、それからの学習においても理由を求めるようになり、それがその後の自立した思考へも繋がっていく。そして、自分の学習するものが義務ではなく、能動的に追求しようと思えるような一つの興味の対象となり、モチベーションも上がる。具体的な授業での方法として、その課目、さらに新分野の授業で初回数回にわたって、1:その分野の概観 2:他分野とのつながり 3:魅力 を説明して興味をもたせ、合間にも 1:実生活で見られる場面 2:大学数学とのつながり を交えてストーリー性を持ったものとして扱いうことで、明確な目的と展望を与えてその分野に対する興味を持たせるとともに、より放射的に情報が入ってくるので記憶の定着と学習の効率化が望めるだろう。
次に、独学力を伸ばす授業形式を紹介する。まず、上記のような方法で興味を持たせることによって自主的な学習を促し、家庭での予習と復習に前向きに取り組ませることを前提とする。彼らの家庭学習は前回の授業で伝えられた、次の授業の単元を自らネットや参考書を用いて行わせる。そして、授業形式としては、自分の調べてきた内容、取り組んだ問題を授業内でグループ形式で発表し興味深いところを紹介しあったり、わからないところを互いに教え合うことをメインに、生徒が主体となって授業を作り出す。講義は補助として授業の合間や終わりに行い、教師はポイントや新たな観点を提示することで彼らの能動的活動に推進力を持たせるために枠組みを与えるという形が望ましい。この形式によって、それぞれの生徒がその分野を自分の好きなように、好奇心をもとに能動的な家庭学習ができ、個人としての勉強法を確立することが可能になる。また、一方的な講義中心の授業で理解が追いつかない生徒も生徒間の話し合いの段階で明らかになり、毎回グループ内もしくは教師の補助によって理解の遅れを防ぐことができるようになる。また、他者と協力しあって問題解決したり自分の考えを伝える能力も身につけることができる。ただし一年生のうちは、どのように家庭学習し、どのような形でグループセッションをするかをある程度指示して、学習のフレームを与えてあげる必要がある。
このような授業形式はすべての科目において有効であると思われる。数学や理科科目ではそのメリットが想像しやすいのではないかと思われる。苦手な生徒を見つけ出して遅れないように教えることが最も必要とされるであろうし、数理系の得意な生徒たちは高度な計算テクニックや関連知識などを調べ上げ、グループで共有するだろう。英語の授業では互いに英語を使って意思疎通を図ることが重要なのは言うまでもない。社会科科目ではこの方法は適さないように思われるかもしれないが、むしろ歴史や地理などの方が、与えられた範囲の中でも自分で興味のある人物の伝記や戦いなどを調べることで流れるように知識が関連して蓄えられる。それをグループセッションの時にそれぞれの生徒が発表するのだ。こうなれば社会科目はもはや暗記するためのものではなく、多くの生徒にとっての趣味とまでなりうるだろう。教師は補助的な知識を提供することでより密度の濃いものにする。
興味を持って自分で取り組み、他者と協力すること。これが日本の教育にもっとも欠けていることだと思う。要するに、教育者側がすべきことは、「いかに学ぶか、なぜ学ぶか」という「枠組み」を提示することであり、生徒が独学力(インプット)と自己表現力(アウトプット)を身につけるための道のりを提示し、自分たちでその道を進むための手助けをすることである。
これに合わせて、大学受験というものも変わるべきであるのは言うまでもない。受験が「答えを合わせに行く」解答を求める限りは能動的な学習を行うことは難しくなってくる。従来の筆記重視の受験勉強から、高校での活動報告、エッセイと言った世界の多くで見られる多様な受験形態を取り入れることで、「受験のために勉強する」といった状況をまず打破する必要があろう。筆記試験であっても、特別な対策のいるようなものではなく、現在の京都大学の入試問題のような自由に記述させるものを始め、個々の「考える力」「表現する力」と言ったものを図るものにしていくべきであろう。しかし、早急に制度を変えずとも、すぐにでも、なぜ学ぶかを説明したり、グループ形式の授業を部分的に取り入れるといったことはできるだろう。是非ともすぐにでも取り入れることができるものが実践され、少しでも多くの高校生たちが、より良い人生を歩むための質の高い教育を受けることができればと思う。次は受験勉強という概念を問い直してみようと思う。
 (著:1月16日)