西成出身京大生。考えたことを共有するため、意見交換の下準備、知らない人に話しかけてもらうためのセルフメディアです。

僕がブログを書く意味

 このブログを書いていて、「お前ヤベェな」とか「よく考えてるね」とか「胡散臭い」と、掘り下げることなく上部の評価だけを伝えてくる人が多い。それでは僕が言語化というリスクを背負い、しかも身の内をさらけ出して終わりではないか。こんなに時間をかけて面倒なタイピングをして自分の考えを書き込んでいるのは、自分がこう言う価値観を持っているということを明かしておいた方が、話したことがなくても「あー、あのブログの、価値観がこう言う人だ」という風にわかってもらえて、そこから一緒に昼飯食べに行った時に「自己紹介をする時間が省ける+間に合わせの言語の乱用を防ぐ」ことで議論の効率化ができるからだ。もう一つ、他者に話しかけてもらい、議論の」相手を見つけたいからだ。それなのに皆「読み逃げ」して、ブログにコメントをしたり僕を昼飯に誘ったりしてくれない。その理不尽さを訴えたくてこうして僕がブログを書く意味を一度まとめることにした。
 そもそも、僕は議論をする人を見つけるためのエサのような効果を求めてブログを始めたのに、実際にはこの二週間、ブログは灯台のようなものと化し、京大生という船は僕に一瞥しただけで、何かを得たのか、その人の思考の方向性に刺激を与えられたのかはわからないが、決して灯台には向かってこないで違う方向に行ってしまう。自分の考えを言語化することを恐れるのは分かるが、言語化して現実世界に押し出してやらないと、他者との交わりの中で生まれてくる新しい考えや自分の考えの発展といったものを享受することはいつまでたってもできない。僕も、書くことで自分の考えが言語により固定化される恐怖と議論で得られるものを天秤にかけた上で、こうして無理やり言語化している。人間という生き物に生まれた以上は言語によって縛られるのは仕方ない。それを認めた上で、言語の暴走する力を逆に享受したいという人と僕は話したい。京大生は昼飯でも食いに行って話したいし、京大生以外の方もメールやコメントでやりとりさせていただけるとありがたい。(昼飯行ける人はいつでも連絡ください)
 具体的にこういう話がしたいというのはないが、文系理系問はず、学問や芸術についての話をしたいと思っている。そういう議論を求めて僕は京大に来た。
 なお、「トートロジーに陥っている」など哲学上、論理上の矛盾を指摘してくれた人もいたが、僕は哲学をしたいのではない。ただ、「価値観を晒すこと」と「僕の価値観に対して他者がどういう反応を示すのかを見ることによる、互いの価値観の昇華」が目的なのであるから、論理の矛盾とかは興味がない。ちなみに僕は哲学は好きではあるが、言語遊びは好きではない。演繹的に論理的整合性を突き詰めていく哲学に限界があることは間違いがないように思える。それよりかは、僕は形而上のものを認め、こじつけで理解しようとしない、スピノザウィトゲンシュタインの考えに僕は強く共感する。ただ、哲学的話も好きなので、僕は論理的に詰めた話はできないが、倫理学よりの話や僕なりの視点からの哲学の見方など、共有したいことはたくさんあるので、ぜひ話しましょう。
 とにかく、言語化することを恐れず、言語とうまく付き合っていこうではないか。大いに議論しようぞ。