西成出身京大生。考えたことを共有するため、意見交換の下準備、知らない人に話しかけてもらうためのセルフメディアです。

過去を生きるということ

 私の時間に対する価値観について書こうと思う。ここでは「過去を生きる」ということについて書いていく。
 自分の過去に行ったこと、考えたことを、想起し、その過去の自分から学ぶということを私はしている。この思考法は、偉人の伝記を読み漁る中で身につけた。例えば伝記では「エジソンはこの時に物事を細かく分解して考える癖をつけたのだった。」という表現がほぼあらゆる出来事について記述されている。私はこの歳にして、何も成し遂げていないにも関わらず、自らの過去の人生を説明するように辿っている。つまり、私は過去のすべての出来事から「学んで」いる。「保育所の時からレゴと折り紙を好んでやっていた上村は、この時に空間把握能力を身につけ、それが現在の驚異的な幾何学における奇抜な発想の元になっている」。この場合、「教育認知学的にこういうことをしたら小学校教育は良くなるかもしれないな」、「こういう能力が俺にあるのなら、こういう仕事をすれば人類に貢献できるかもしれない」など、いろんな学びができる。しかもその学びは記憶力がある限り人生のどの時点においてもできる。このレゴについての事実から学ぶにしても、認知学の知識が全くなかった一年前ならば学べることは皆無に等しかったし、四年後にはレゴを超える教育玩具を作り出すヒントとして折り紙の事実と合わせられるかもしれない。この、過去という時点にいつでも回帰し、学んでこれる(そして同時にしんみりと思い出に浸れる)ので、私は過去を生きていると言えるであろう。
 続いて、私の友人関係に対する価値観を話しておこうと思う。友との思い出というのはずっと鮮明に心に残っているし、その限りで同じ時間を共有した友は人生において変わらず友であると、私は考えている。だから、互いの価値観が変わって気が合わなくなったり、昔のように一緒に遊んだりしなくてもその友は私にとっては一生涯の友であり続ける。だから同じ友と気が合いもしないのに無理して行動を共にし続けるというのは惰性でしかないと思っている。常に一緒にいないと失われてしまう友情など、話が合わなくなると切れてしまう友情など、私には興味はない。久しぶりに会って昔を思い出して、昔の価値観に戻って楽しく酒を飲む、いわば共に過去に帰ってその時を生きられる。それが私の理想である。(問題は、相手が同じ価値観を持っていない場合それが成り立たないということだ!そのためにここに書いた!!)