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西成出身京大生。考えたことを共有するため、意見交換の下準備、知らない人に話しかけてもらうためのセルフメディアです。

今を生きるということ

ここでは過去を生きることに続いて、「今」を生きることについて書いていく。今を生きるといえば、今年の京大の英文に出てきたことは記憶に新しい。その英文では人々の時間に対する価値観について、過去との比較によって生み出される負の感情や、今を生きることを人々が恐れる理由などが挙げられていた。実はこの英文は、最初の引用部にもあったように禅の教えをもとに論を展開していた。私は去年の11月に瞑想修行に行ってから、この「今を生きる」ということの喜びを味わえるようになってきている。そこで、ここでは私なりの「今を生きる」ということについて書いていきたい。
 今この瞬間に生きていられることに喜び、感謝すること。すべてはこれに尽きる。もちろん、昔はこんなことがあった、と思い出話に浸ることもある。それに未来とまではいかなくても4年後にはこんなことがしたいからそのためにこれをしよう、という人生計画もする。どうしても過去の栄光や未来への希望に人はすがりたくなるものだ。ただそこには他者としての自分との相対的な比較による嫉妬の可能性が潜んでいる。それに、そうして先のことのために行動することを繰り返しているうちに人生というものは終わってしまう。しかし、私たちが生きているのはやはり「今というこの瞬間」であるのだ。人はこの今をあまりにおろそかにしすぎている。それも無意識に。
 それでは、ただ今を遊んで楽しめば良いのだろうか。もちろん私に断言することはできないが、毎日のようにテレビを見たり麻雀をして遊ぶことは、人間としての「今」を生きるということにはなっていないと思う。それは一時しのぎの快楽に過ぎず、ほとんど記憶にも残らないような惰性的行動として人生をすり減らしてしまうように私は考える。人によって様々であるが、友との会話や芸術鑑賞、学問の探求や仲間との起業。そういった人間としての「生」の喜びを享受できることに、私は貴重な今という時間を捧げたいと思う。スティーブ・ジョブズは「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことか。それに対する答えが”No”という日が幾日も続くのであれば、何かを変える必要がある」と言った。哲学者ハイデガーは、死を意識しそこから逆算して今を見ることで生き方を考え直すことを説いた。私たちは限られた時間しか生きることのできない、いつか必ず死んでしまう儚い存在だ。だからそれを意識した上で、今というこの瞬間を存分に生きるべきではないだろうか。
 また、私という存在は、大事に育ててくれた父母始め、様々な人の支えで今ここにあるし、人類の歴史的流れの中での存在でもある。そう言った歴史的なものを背後に持って初めて存在する収束点としての「今」。精神と世界とが唯一接する点、そしてこれからの未来へと広がっていく起点としての「今」。この「今」を生きる点としての自分。それを宇宙、時間の壮大な広がりの中の存在として捉えること。それこそが「今というこの瞬間」を生きるということにほかならない。すると今生きていることに対する感謝、そしてあらゆることに対する感謝と喜びが自然と感じられてくる。それこそが仏教でいうアガペー(愛)であり、悟りである。悟りというものは非常に相対的なものであるとは思うが、様々な教えや経験の中で考える私の中での悟りといものは、この「今」に対する感謝から生じるアガペーを外界からの刺激にかかわらず常に感じられる状態のことを指す。さらに、お坊さんや僧侶などの偉大な方々は、そのアガペーを他者にも与えることができるほどの大きな愛を持っておられる人だ。
 多くの教えでは、人生の真理は「愛」であるという。それは情熱的な恋愛を指すのではなく、すべてのことに対する愛であろう。その愛とは今というこの瞬間を生きることによって初めて得られるものである。このブログでは過去を生きることについても書いてきたが、やはり私たちが大事にすべきはこの「今」だ。今の私が真に今を生きれているかどうかはわからないし、これからもわからないだろう。ただ、常にアガペーを感じて、今というこの瞬間を精一杯生き、それを周りの人、できるだけ多くの人と共有して生きていきたい。