西成出身京大生。考えたことを共有するため、意見交換の下準備、知らない人に話しかけてもらうためのセルフメディアです。

日本における子どもの貧困〜子ども食堂をこえて〜

 3月20日、大阪教育大学にて生野子育ち社会研究会主催の「子ども食堂をこえて」というタイトルで、日本の子どもの貧困問題について考える講演会に参加してきました。僕が強いられたように、一人一人がこの社会問題に対する自らの認識が浅いことを自覚し、熟考することで認識の度合いを深くするきっかけを作るべく、この講演で学んだこと・考えたことをまとめ、提示しようと思います。僕にはそれが今できる社会への小さな貢献です。
 この講演に参加したのは日本の子どもの貧困について「まったく」知らなかったから聞きに行こう。といった浅はかな動機からでした。しかし今回の公演の最中から、人類という存在に対する認識が、染み込みこむようにして一変されるのを感じました。ひっくり返るのではなく、深まる、という度合いの変化でしょうか。現在の価値観は圧倒的にこれまでのものとは違うのですが、ここでありきたりな表現をするよりは、細かく表現しようとすると、やはり「染み込むように深まり、結果として転換となる」です。
 今回思い知らされたのは、中途半端に事実を知識として得る、または自己満足のための寄付をするくらいなら、知らない方が、金を出さない方がマシだということです。これは来ていらっしゃった方々に共通の認識でありました。これは、フードバンクであったり子ども食堂といった、貧困の子どもに食事を提供するといったNPO法人にも当てはまり、みわよしこさんは傷口に間にあわせで貼る”絆創膏”に例えていました。一時凌ぎにはなるけれど、逆に傷口が隠されるから抜本的な改革が遅れること。貧困の当事者が周辺化する、つまり「助けてもらっているのだから」という主従関係のようなものができてしまうことによって当事者が声をあげられなくなる。これらが”絆創膏”として批判されるときの主な理由です。このジレンマとどう向き合っていくか、僕は思い悩んでいます。
 これは子ども食堂についてではなく、私たち自身の、あらゆる社会問題や環境問題に対する認識について言える考え方です。社会問題についてGoogleで調べたところで、認識は浅いもので止まるでしょう。さらに悪いことに、調べたことで知った気になり、単なる事実としてこの社会問題について考えるのを自然と止めてしまうでしょう。わかった気になる。都合のいいように理解する。それが人間の認知というものです。また、ウェブサイトを見て人間としての良心の痛みを感じて寄付をする方も出てくるでしょう。しかし、それで満足して考えることをやめ、人に伝えることをやめてしまうなら、それは単に個人としての徳を積んだ、そして付属として子供たちの夕食三日分、とも言えます。
 僕自身、子どもの貧困にかかわらず、世界での問題について、知識として持っているレベルの浅さでした。海辺で死んでいるシリア難民の子ども、餓死寸前の子を狙うハゲタカなどを見て、良心の痛みを感じる。僕もそうでした。それはほとんどの人がそうでしょう。でもそれで終わり。自分は現状を知っている、同情している。CSRとして募金しよう。よし、自分は世界市民として貢献している。そこで止めてしまっているのではないでしょうか。それでは人類の負の連鎖は止まらず、焼け石に水なような気がしてなりません。しかも、人類は不必要な工業開発などによってさらに石を熱くし続けている。僕の生き方はオプティミスティック(楽観的)ですが、人類の現状および歴史について言えばニヒリスティック(厭世的)の立場をとらざるを得ません。
 我々は認識の度合いがどれくらいなのかを意識的に自覚せねばなりません。正直なところ、どんな著名な人が社会問題について書いても、それを読んだり、写真で見るだけでは認識を深めることには限りがあります。当事者に接触する、内部に踏み入ることで初めて認識は深まり、度合いというものを超えて、今までとは違った価値観を持つようになるのだと思います。実際にはそういった機会を設け得ようとする人は少ないでしょう。先に挙げたように浅い認識が枷になって思考停止してしまうからです。そして、実際に認識が深まったと感じても、そこで認識の度合いを深めることを無意識のうちに止めてしまうのなら、それもまた同じことです。だからこそ僕たちは、意識的に度合いを問うてみることによって、自己の認識を深めようと努める必要があります。そうして、個人及びコミュニティ内での総合的な認識を深める必要があるのは言葉にすれば当たり前ですが、このことについての認識の度合いを深めるために婉曲的な表現をする必要があります。黒絵の具を溶かした水を机の上に集めた大きな水滴を想像してください。その近くに小さな、透明な水滴を落としても、元の水滴に飲まれ、元の透明さは跡形も無くなります。人類に必要なのは、黒色の水を追加するよりも多くの透明な小さな水滴を、皆が注ぐことで赤色を注ぐことが無意味である状況にまで持っていくことです。歴史の負の連鎖を止めるには、弱者およびすべての他者、そして偉大な自然に敬意を払う、そんな価値観を人類の支配的な価値観とならなければ我々人類は黒い水を注ぎ続けて地球および人類を破壊しつくてしまうことでしょう。
 僕自身に出来ることは何か。むしろ、この負の連鎖は決して止めることはできないので今まで通り、個人および自分の周囲の幸せを追求しつつ(利己的に)、それが他者および人類の幸福に自然とつながる、といった西洋の生み出した綺麗事に追従していくのか。これについては人生の中でゆっくり考えて続けていく必要があるので、デカルトにならって暫定的にスタンスを定めておきたいので、「”そうではない人・こと”に常に考えを及ばせて、まずは自己の人生を追求する。」というスタンスで行こうと思います。ニヒリズムオプティミズムの両方を量子力学的に備え持った思考様式。そんな曖昧さが人間としての「生」を追求するには必要なのではないでしょうか。