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脱受験勉強のススメ

僕はふと疑問に思った。いわゆる「受験勉強」は必要なのだろうか。大学側はテストの形式に慣れさせることを目的として試験を作成しているのだろうか。ここでの僕のあげる仮説はは次のことである:1:大学側は一定以上の学力を持った生徒を選抜するために試験を作成するのであるから、本来高校で勉強して実力を発揮すれば合格するはずである
2:「受験勉強」という概念は利益目的に学習塾が煽り立てることであたかもそれが当たり前であるように仕向けたものに過ぎない。学校側もそれに乗せられて、進学校=公の学習塾という現在の形態になっている
 それぞれの大学が求めている能力というのがあるだろうから大学により試験形式が異なっていて、それに対応するために過去問を解いたりして問題形式に慣れる、というのが僕の思う皆が行っている受験勉強と考えてもらいたい。そもそも大学によって傾向がある、というが、もしある特定の能力を見出すためにそのテストを作成するのならば、必要とされる思考力というのはその時代にはどこの大学も似たり寄ったりになるから形式はそれほど変わらないはずだ。しかも、時代によって求められる能力は当然のように変わるはずであるから、試験の形式も変わってくるはずであろう。しかし、どこの大学も、特に難関校になってくると独特のクセのある問題形式、それも二十年以上前から変わらない「伝統的な」試験を課す大学が多い。そのような試験においてはある特定の問題パターンを見出してしまえば対策しないよりも点数が取れるものであるから、合格するために高校生は皆「受験を制する」べく、試験に「慣れる・合わせに行く」勉強をする。そうして、自らを枠にはめに行く、合わせに行く力を持った高校生が大学に進学していくのだ。この愚かな事実が大学側にわかっていないはずはないのだが、おそらく、難関私立では特にそうだろうが、その「学校特有」、「クセのある」ということに酔いしれている、もしくは伝統として守らなければいけないという義務感があって、さらにその特有なことに学習塾側もあやかって「〜大塾」「〜大対策講座」なんてものを設けてしまい、受験生および母親が金を払い続けるものだから、大学側も試験形式を固持し続けているのだろう。基本的に僕は大手塾という存在が受験勉強という概念を形成していると考える。利潤を目的とした彼らの煽りが母親の心配性に火をつけ、受験勉強というものを正当化し、それに従って高校生たちは学問そのものに対する好奇心と引き換えに、戦いを制さなければならないという義務感と焦燥感を植え付け、学問というものを手段に貶めているのである。それが日本人学生の学問嫌いにしてしまい、世界で活躍する人材をうまく育てられない大きな要因となっていると考えられる。
 そこで僕は、受験勉強というものを最小限に抑え、自分の好きな勉強をすることで京都大学に合格しようと、半ば反抗するつもりで学校を休んで自宅で好きなように勉強して、受験一ヶ月前を切った今も、こうしてこの文をパソコンに打ち込んでいるのだ。ちなみにこの文を書くという行為は僕の見出した現代文および英文和訳のための最も効率の良い記述力をつける勉強法である。いや、勉強法というよりは営みだ。僕はこの一年間勉強をするという意識はあまり持たないようにしてきた。認知学的に、経験的にも当たり前だと思うだろうが、好きなことを自主的にやったほうが学習効率は圧倒的に高い。ポケモンに没頭し、400匹を超えるポケモンの名前を初見で覚える生徒が、赤シートをすり減るまで擦り付けてシス単で英単語を覚えようとするのを考えると非常にいたたまれない気持ちになる。
 具体的にどのような勉強法を僕がしたのかはとりあえず合格してからでないと信憑性が出ないのでここでは詳しく書かないが、一例を挙げると国語の記述と和文英訳は手持ちの表現の豊富さと言語運用能力が必要だと思われるから、試験の問題を解くのではなくひたすら好きな本(ただし小説ではなく哲学の入門書やブルーバックスに至るまで、評論文的なものが多かった)を読んで、教養をつけ世界を広げることも同時にやってのけようとしてきた。京都大学進学を決めた9月からは合わせて60冊くらいの本を読んできた。この勉強法を友人に勧めてもやはり、受験勉強をせねばという強迫観念ゆえになかなか実践することが難しいようだ。だが、実際、国語が苦手で二年生の時には模試で偏差値55あたりをうろついていた僕が、京大の過去問で迷いなく美しい回答を書くことができるようになっていることからも、僕のこの試みは成功したと言えるだろう。他の科目についてはまた違う回に書こうと思っているが、この試みによって僕が「受験を制する」ことができたならば、高校生にとって新たなロールモデルとして勉強法を伝授できると思う。(著:2017年1月20日)