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西成出身京大生。考えたことを共有するため、意見交換の下準備、知らない人に話しかけてもらうためのセルフメディアです。

真理・選択・ヴィパッサナー(古)

 先日、ヴィパッサナー瞑想法の修行に10日間行ってきた。10日間山奥の小さな施設に泊まり込み、睡眠と食事以外の時間は常に瞑想をしているという非常にハードなものであった。さらに修行中は誰とも会話をしてはならず、目を合わせることも、体が触れ合うことも許されない。今までの人生で味わったことのない異様な時間を味わってきたのであるが、得られたものは大きかった。ヴィパッサナー瞑想法がどのようなものであるかは、実際のところ体験してみないと、いくら字面で表現しても分かるものではない。それは超自然的なものであり、精神的なものでもある。いわばそれは人間という、物質と精神のプラットフォームで行われる浄化のプロセスであり、世界の真理へとつながる道でもある。10日間だけなので悟りを開けるはずもないが、真理がどのようなものであるか、どのようにすればそれをつかめるのか、という入り口を見ることができる「悟りの道お試しパック」みたいな修行コースである。人生経験として一度体験されることをお勧めしたい。
 このように言いながらも、実は私は修行法を少し誤ってしまい、深いところまでは瞑想できなかったので、途中で見切りをつけて9日目からは修行を放棄し、庭でひたすら自考していた。瞑想中に8日目までは、体に起きていた変化から、この瞑想法は本物だ!という確信があったので、盲目的に修行に集中していたが、9日目に一歩距離をとってこの瞑想法とその教えを客観視し、自考を始めると、「真理」というものは相対的なものに過ぎないという事実が見えてきた。
 ヴィパッサナー瞑想法における教えはすごく理にかなっていて、私がこれまで考えてきた理想的な生き方と一致するところも多々ある。さらに、それらの考えを体の感覚を通して経験的に会得できるというものである(謎めいていた説明かもしれないが、実際そうなのである)。正直この瞑想法は「本物」であり、人生を間違いなく豊かにしてくれるだろう。そして、この教えは個人にとっての人生における絶対的な「真理」になりうるものである。実際、コースで出会った一部の人は以前からこの瞑想法を続けている人たちで、彼らは毎日瞑想し、この教えを軸に生きている人たちであったが、皆肝が座っていて、寛容であった。しかし、同様に人生を豊かにしてくれる絶対的なものである点において、宗教や哲学もこの瞑想法と共通している。
 イスラム教やキリスト教を信仰する人は、戒律や神を絶対視する思想など、多くの教えを軸に持っている。その教えは間違いなく絶対的な「真理」だ。そうでなければこれほど多くの人々がそれを信仰し続けるはずがない。また、以前夜行バスで創価学会の人と隣になった時に話しを聞いていると、創価学会の教えも核心をついた素晴らしい教えで、確かに人間というのはそういうものなのかもしれない、と思えるものであった。
 また、無宗教の人でも哲学の勉強をすることで、人生における「真理」を獲得できる。それを軸にして生きれば人生は豊かになることであろう。最近で言えばアドラー心理学が話題になったが、理解しやすく宗教色も弱いこの教えは、生きる軸を求めていた日本人にとって丁度良い「真理」であったのだ。
 すなわち、ここで挙げた宗教、哲学、瞑想はどれもその個人にとっては絶対的な「真理」であるからして、世界に唯一無二の、普遍的な真理というものは存在せず、「真理」というものは個人という相対的な枠組みの中にあって初めて絶対的になりうるのだ。そしてその真理はその人にとっての大きな心のよりどころとなり、その人の人生を豊かにする。だからイスラム教やキリスト教を信仰する人は、神という絶対的な心のよりどころを持つがゆえに、無宗教で哲学にも疎い日本人や韓国人のようにあっさり自殺したりしない。それゆえに、人は人生の中で何らかの形の真理を持つべきだと思う。しかし、ここで重要になってくるのは、”その人自身がその真理を「選択」し、それを軸とした生き方を選択したかどうか”、である。
 実は今回、この瞑想法がどんなんものなのか詳しくわからないまま、パフォーマンスを上げるため、という煩悩に溢れた理由から修行に参加したのだが、実際参加してみるとパフォーマンスなど特に関係なく、もっと深い、個人の人生を変えうるものであった。偶然人生における真理に出会う機会に巡り合えたのだから幸運だったのかもしれない。そしてもし私が今回の瞑想で悟りに至ることができていたら、私は残りの何十年もの長い人生を平安と調和に満ちた偉大な指導者として生きていくことができたかもしれない(まだ社会に出ておらず、世のマイナス要素をほとんど吸収してきていない私なら、10日間で悟りに至ることは十分可能であった、と後になって思う)。確かにそれは素晴らしい人生でありそうだ。周りからは信頼され、どんな諍いにも惑わされずに世界の人々に貢献していく人生だったろう。しかし、問題なのは私が”思いもよらず”悟ってしまっていたかもしれないということだ。つまりそこに選択というプロセスが存在していなかったことが問題なのである。もし悟っていたら、私は人間の苦しみや嫉妬というものをほとんど経験しないまま人生を終えてしまうかもしれなかったのだ。これはいいことのように聞こえるかもしれないが、感情の起伏というもの、人間の負の感情というものを知ることができなくなっていたかもしれないのだ。
 他の真理についても同様だ。その真理を軸として持ってしまった以上、その真理をもとに価値観は形成され、それが行動に反映され、その人をその人個人たらしめる。なぜならその真理をもとに思考回路となるニューロンの繋がりが強化され、その回路を刺激が伝わりやすくなり、多くの思考がこの回路を通る。だから、一度真理を持った以上は、その真理によって後の人生は規定されてしまうことになる。ここではそれが良いか悪いかは問題ではない。一回きりの人生がそれによって規定されてしまうのであれば、何を真理とするかを「選択」することは、自分の人生をどのようなものにしたいかという大筋を「選択」することに他ならない。その選択の過程に自身の自由意志が働いていなかったとすれば、その後の人生は”自分の人生”とは言えないだろう。生まれてからずっとイスラム教の教えでのもとで育ってきた子供は、自分で選択したのではない神を心のよりどころとして、幸せに生きていく。洗脳を受けて、一生幸せな気持ちで居られるようになった人は、自分が選択したのではない、幸せに溢れた人生を送る。同様に、私も今回の瞑想修行で、危うく自分で選択したのではない道、悟りの道へ至り、自分で選んだのではない境地、無我の境地に至り、素晴らしい人生を送ってしまうかもしれなかったのだ。実に恐ろしい。