西成出身京大生。考えたことを共有するため、意見交換の下準備、知らない人に話しかけてもらうためのセルフメディアです。

日本における子どもの貧困〜子ども食堂をこえて〜

 3月20日、大阪教育大学にて生野子育ち社会研究会主催の「子ども食堂をこえて」というタイトルで、日本の子どもの貧困問題について考える講演会に参加してきました。僕が強いられたように、一人一人がこの社会問題に対する自らの認識が浅いことを自覚し、熟考することで認識の度合いを深くするきっかけを作るべく、この講演で学んだこと・考えたことをまとめ、提示しようと思います。僕にはそれが今できる社会への小さな貢献です。
 この講演に参加したのは日本の子どもの貧困について「まったく」知らなかったから聞きに行こう。といった浅はかな動機からでした。しかし今回の公演の最中から、人類という存在に対する認識が、染み込みこむようにして一変されるのを感じました。ひっくり返るのではなく、深まる、という度合いの変化でしょうか。現在の価値観は圧倒的にこれまでのものとは違うのですが、ここでありきたりな表現をするよりは、細かく表現しようとすると、やはり「染み込むように深まり、結果として転換となる」です。
 今回思い知らされたのは、中途半端に事実を知識として得る、または自己満足のための寄付をするくらいなら、知らない方が、金を出さない方がマシだということです。これは来ていらっしゃった方々に共通の認識でありました。これは、フードバンクであったり子ども食堂といった、貧困の子どもに食事を提供するといったNPO法人にも当てはまり、みわよしこさんは傷口に間にあわせで貼る”絆創膏”に例えていました。一時凌ぎにはなるけれど、逆に傷口が隠されるから抜本的な改革が遅れること。貧困の当事者が周辺化する、つまり「助けてもらっているのだから」という主従関係のようなものができてしまうことによって当事者が声をあげられなくなる。これらが”絆創膏”として批判されるときの主な理由です。このジレンマとどう向き合っていくか、僕は思い悩んでいます。
 これは子ども食堂についてではなく、私たち自身の、あらゆる社会問題や環境問題に対する認識について言える考え方です。社会問題についてGoogleで調べたところで、認識は浅いもので止まるでしょう。さらに悪いことに、調べたことで知った気になり、単なる事実としてこの社会問題について考えるのを自然と止めてしまうでしょう。わかった気になる。都合のいいように理解する。それが人間の認知というものです。また、ウェブサイトを見て人間としての良心の痛みを感じて寄付をする方も出てくるでしょう。しかし、それで満足して考えることをやめ、人に伝えることをやめてしまうなら、それは単に個人としての徳を積んだ、そして付属として子供たちの夕食三日分、とも言えます。
 僕自身、子どもの貧困にかかわらず、世界での問題について、知識として持っているレベルの浅さでした。海辺で死んでいるシリア難民の子ども、餓死寸前の子を狙うハゲタカなどを見て、良心の痛みを感じる。僕もそうでした。それはほとんどの人がそうでしょう。でもそれで終わり。自分は現状を知っている、同情している。CSRとして募金しよう。よし、自分は世界市民として貢献している。そこで止めてしまっているのではないでしょうか。それでは人類の負の連鎖は止まらず、焼け石に水なような気がしてなりません。しかも、人類は不必要な工業開発などによってさらに石を熱くし続けている。僕の生き方はオプティミスティック(楽観的)ですが、人類の現状および歴史について言えばニヒリスティック(厭世的)の立場をとらざるを得ません。
 我々は認識の度合いがどれくらいなのかを意識的に自覚せねばなりません。正直なところ、どんな著名な人が社会問題について書いても、それを読んだり、写真で見るだけでは認識を深めることには限りがあります。当事者に接触する、内部に踏み入ることで初めて認識は深まり、度合いというものを超えて、今までとは違った価値観を持つようになるのだと思います。実際にはそういった機会を設け得ようとする人は少ないでしょう。先に挙げたように浅い認識が枷になって思考停止してしまうからです。そして、実際に認識が深まったと感じても、そこで認識の度合いを深めることを無意識のうちに止めてしまうのなら、それもまた同じことです。だからこそ僕たちは、意識的に度合いを問うてみることによって、自己の認識を深めようと努める必要があります。そうして、個人及びコミュニティ内での総合的な認識を深める必要があるのは言葉にすれば当たり前ですが、このことについての認識の度合いを深めるために婉曲的な表現をする必要があります。黒絵の具を溶かした水を机の上に集めた大きな水滴を想像してください。その近くに小さな、透明な水滴を落としても、元の水滴に飲まれ、元の透明さは跡形も無くなります。人類に必要なのは、黒色の水を追加するよりも多くの透明な小さな水滴を、皆が注ぐことで赤色を注ぐことが無意味である状況にまで持っていくことです。歴史の負の連鎖を止めるには、弱者およびすべての他者、そして偉大な自然に敬意を払う、そんな価値観を人類の支配的な価値観とならなければ我々人類は黒い水を注ぎ続けて地球および人類を破壊しつくてしまうことでしょう。
 僕自身に出来ることは何か。むしろ、この負の連鎖は決して止めることはできないので今まで通り、個人および自分の周囲の幸せを追求しつつ(利己的に)、それが他者および人類の幸福に自然とつながる、といった西洋の生み出した綺麗事に追従していくのか。これについては人生の中でゆっくり考えて続けていく必要があるので、デカルトにならって暫定的にスタンスを定めておきたいので、「”そうではない人・こと”に常に考えを及ばせて、まずは自己の人生を追求する。」というスタンスで行こうと思います。ニヒリズムオプティミズムの両方を量子力学的に備え持った思考様式。そんな曖昧さが人間としての「生」を追求するには必要なのではないでしょうか。

京都大学合格体験記ー受験勉強など京大は求めていないー

 僕は日本の教育制度、というよりは競争と比較ありきの受験というものをよろしく思わず、それに反抗するべくいわゆる”受験勉強”というものをできる限りせずに京大に合格して、「受験勉強とは集団が生み出した流れに過ぎず、実際に大学側はそのような受験勉強は求めていない」という説を自ら体現してやろうと好きなように勉強して京大に合格しました。そこで、この考え方を受験の中ですり減る若者たちのためにも共有しておこうと思い、ここに記すことにしました。
 まず前提としてもらいたいのは、最良の勉強法とは、「自分にあった勉強法を模索しながら改善し続ける」勉強法だということです。ですから、ここでは僕の行った勉強法を時系列で具体例としてあげつつ、「どのようにその勉強法を確立していったか」「それは自分の思考のどのような傾向を元にしているか」という、いわば「勉強法確立のためのコンパス」として書いていきます。少しでも受験生が不毛な学びから抜け出すことの手助けになればと思います。
 
具体例1 137冊の本を読むーー該当科目:国語、英語、数学
 これが僕の勉強法の核をなすものです。僕の基本スタンスとして、人生という長いスパンで見て価値のあることだけをしたい、というものがあるので、受験の枠にとらわれない、でも受験に確実につながる学びは何か、と考えたら読書になります。「国語の記述や英語の和訳なんてものは、どれだけ日本語の文章のストックが自分の中にあるかでほとんど決まる」と認知学の本から学びとった後の判断ですが、これは実験的な勉強法の中の一つであり、最もしっくりきたものです。大事なのはこの「実験的に自分にあった、もしくは受ける大学に適した学習法を身につけること」です。
 九月ごろ:その頃は京大受験まで半年しかない!という思いから、学習を効率化せねばと思い、学習法についての本を読もうと思い認知学の本に手を出しました。そこから派生して脳科学の本も読み、計10冊くらい読みました(他の時期を合わせると計30冊くらい)。これが功を奏して僕は受験というゲームを制したと思っています。「数学を学ぶことで認知のどういう力がどういう風に形成されるのか」「そのための最も効率良い学習法は何か」というようなことを知らずにただ課題をこなすだけでは知能を伸ばすのには効率が悪いということだけは理解してください。そして、自分で脳・認知学の本を読んでみて、自分の認知についての知識を持って初めて、メタ認知(自分を客観的に見る力)による学びの楽しさ、効率が増すのです。具体的なことはまた違う機会に書こうと思います。
 10月頃:この頃は数学の勉強と並行して、歴史の本や評論の文を読んで、読解力を身につけていました。(10冊くらい)
 12月初旬〜受験2週間前:この期間は一日中本しか読まない日がほとんどでした。この期間でちょうど98冊の本を読みました。ジャンルは主に自然科学系、特にわかりやすいポピュラーサイエンスの本(海外の本の邦訳はハズレがない。)を中心に読み、その他は僕の個人的な研究(後々書いていく予定)のための読書をしていました。小説はSF小説を研究の一環で読んだくらいで、基本的には硬い文章です。
 結果:僕の最も苦手な科目は現代文でしたが、京大の記述を前にスラスラと自分の表現が出てくるようになりました。また、幅広い分野の教養を身につけることができた。受験テクニックを身につけても、後の人生にはあまり役に立ちません。(理系の人は、ポピュラーサイエンスを読むことで大学の科学と高校科学との接続が見えるので、科学科目の見通しも良くなり一石二鳥です。)
 
具体例2 大学の勉強をするーー該当科目:全科目
 僕は文系受験ですが、数IIIと、高校範囲の理科3科目は好奇心から全て学びました。その後、物理と数学は大学の範囲も少しかじりました。これらは、人生のスパンで見て有益な学習であるだけでなく、文系であっても、概念のレベルで読解力として現れてきたり、数1A2Bでの見通しが良くなったりと、諸学問間のつながりとして現れてきます。
 この勉強法は1で見た認知学の勉強をしてからでないと、高校範囲と大学範囲のつなげ方がイマイチわかりづらくなるので、少し難易度は上がります。これは数学と科学が特にわかりやすいのです。例えば、高校の物理や数学なんてものは100年以上前の古典の一部に過ぎず、単発的で、人によってはおもしく感じれないことも多々あるように思われます。それを、少し大学の流体力学脳科学まで広げて勉強すると、「こんな風に複素数平面を使うのか!」「脳科学で見た多次元ベクトルの概念でこの青チャートの問題一瞬で解けるやん!」といった風に、学びの見通しが良くなったり、新たな視点で問題に取り組めたりします。そして何より、受験テクニックなんかではなく、その後に活きる知識を身につけられます。これは受験勉強という強迫観念のもとでは浮かんでこない勉強法ですが、それに嫌気がさしている、向上心ある高校生には是非試してもらいたいと思います。
 
具体例3 500字の英文を読み漁るーー該当科目:英語
 僕が受験勉強を始めたのはちょうど8月3日でした。その頃は海外進学を考えていたので英語の勉強だけをしていました。具体的な勉強法としては、『文で覚える英単語』の準一級と一級の英文を、1文あたり3〜4分で読み、読み終わってから単語の意味を確かめることを2分以内に終わらせます。こうして、一つの文(400〜600字)あたりに約5分ほどかけます。 読んでいく過程で知らない単語が出てきても、一瞬で、かつ機械的に印をつけてそのまま読み進めます。この勉強法の目的は、英文を読むスピードを自分で計り、スピードをどんどん短縮していくことにより、日本語を介さずに英語を理解できる力を身につけることです。 ここで大事なポイントが二つあります。一つは、時間をしっかり計ることで惰性をなくし、さらに読む速さの増加を実感として得ることです。二つ目は、この約5分のサイクルを続けて4〜5回で1セット、など自分で決めて、できる限り短期間(一週間くらい、各自による)で詰め込んで文を読むことです。短期間に詰め込むことよって、ニューロン回路が適応して(いわゆる慣れ)、「日本語を介さずに英語を理解できる」という感覚が程度は異なるものの掴めると思います。一度その感覚を持ってしまえば、その後英文を読むのを怠ってニューロン回路が弱まる(=読書スピードが落ちる)ことはあっても、理解の感覚自体は一生残るのではないかと思います。(実際僕は、二週間ほど英語漬けの生活を送った後は英文を読む機会はまばらになりましたが、今でもこの感覚は残っています。)
 この速読法自体は、高校教育カリキュラムの研究などを見ていても理にかなっているので、普遍的に全高校生に当てはまると思います。少なくとも、シス単で記号として英語を扱うのだけはやめましょう。認知学的に非効率です。僕もポケモンの名前は450匹くらい全て覚えていましたし、モンハンの操作もすぐ覚えましたが、どうしても文脈のない単語帳などでは単語は覚えられませんでしたし、高2までは暗記力の不足に苦しめられていました。
 
おまけ 瞑想修行に行くーー該当科目:全科目
 これは参考程度に読んでください笑 
 僕は色々あって(また今度書くかも)11月8日〜19日の間、京都の山奥にこもって瞑想修行しに行きました。瞑想というのは、体験する人によって、また捉え方によって得られるものから全てことなってくるものですが、僕の場合は、脳・認知学の観点からも捉えてみたのですが、「悟り=メタ認知」とも言うことができるのです(詳しくは後日)。それも、瞑想で得られるメタ認知は半端なく深いものです。それによって、僕は勉強するときには、自分の精神状況から思考パターン、バイアスなどを「意識」して、意図的に思考パターンを変容させていきました。
 
最も大事なこと
 ここまで挙げてきた勉強法は、悪しき伝統ゆえに(そして利潤目的の大手塾戦略ゆえに)日本の大学に進学したくても受験戦争とやらに参加せざるをえず、知力と精神をそぎ落とされていくであろう好奇心に満ちた高校生たちを対象にしています。前にまとめた教育に関するページにも書いていますが、「好奇心を持って、能動的に学ぶこと」が学びのあるべき姿でもあり、認知学的に最も効率の良いものです。この精神をもとに僕はこれらの勉強法を実践してきたので、楽しくて楽しくてたまりませんでした!もう一度言いますがポケモンです。ポケモンをやる感覚で勉強するのが最も効率がいいのです。
 どうしても人間というのは周りの環境に飲まれてしまうものであるので、自分にあった勉強法を見出していく過程でも、同級生が必死に受験勉強をやっているのを見ると不安になって結局不毛な受験勉強をしなければならなくなります。それだけは僕も責任が取れないので強制できませんが、一つの価値観として参考にしてもらいたいのですが、受験勉強をすることで「合わせに行く、典型的な日本人群」とひとくくりにできるようなニューロン回路を高校三年間で固定化していくというのは僕には耐えられませんでした。一度ニューロン回路が若い時に固定されてしまうと、人生の間ずっとそのニューロン回路にある程度規定されて、考え、行動し、生きていくわけです。何も考えずに受験勉強をしていると、単語を暗記するニューロン回路は強化されますが、単語を調べるのならコンピューターの方が優れているし、ググればいい。数学のパターン暗記をしていても、受験は制することはできますが、人類が知っていることなんて知らないことに比べると無に等しい。その人間の少ない知識の中のさらにけし粒ほどの数学の解法を覚えたところでキリがない。
 僕が提示しているのは僕のような勉強法をすることではありません。高校の教育カリキュラムに従って勉強を学校でやりながらでもいいのです。大事なことは、「その学びを何のためにやるのか、どのように知的に賢くなれるか」ということを個人個人が意識して、自分の人生というスパンで置き換えて今何をすべきか、したいのかを考えた上で、自分なりの学習法を編み出していくことです。
 締めくくりとして、MITメディアラボ所長の伊藤穣一さんの言葉を引用すると、「今の時代に必要なのは地図ではなく、コンパスだ。」僕がここで示してきたのは僕がたどってきた地図と、それを作り上げていく過程で使ったコンパスです。皆さんにはそれぞれの生き方、価値観があると思います。それぞれが自分にとってのコンパスを見出し、後で振り返ってみて満足できるような道を辿って行ってください。この記事がそのための助けになれば幸いです。
 
3月12日 上村治也

脱受験勉強のススメ

僕はふと疑問に思った。いわゆる「受験勉強」は必要なのだろうか。大学側はテストの形式に慣れさせることを目的として試験を作成しているのだろうか。ここでの僕のあげる仮説はは次のことである:1:大学側は一定以上の学力を持った生徒を選抜するために試験を作成するのであるから、本来高校で勉強して実力を発揮すれば合格するはずである
2:「受験勉強」という概念は利益目的に学習塾が煽り立てることであたかもそれが当たり前であるように仕向けたものに過ぎない。学校側もそれに乗せられて、進学校=公の学習塾という現在の形態になっている
 それぞれの大学が求めている能力というのがあるだろうから大学により試験形式が異なっていて、それに対応するために過去問を解いたりして問題形式に慣れる、というのが僕の思う皆が行っている受験勉強と考えてもらいたい。そもそも大学によって傾向がある、というが、もしある特定の能力を見出すためにそのテストを作成するのならば、必要とされる思考力というのはその時代にはどこの大学も似たり寄ったりになるから形式はそれほど変わらないはずだ。しかも、時代によって求められる能力は当然のように変わるはずであるから、試験の形式も変わってくるはずであろう。しかし、どこの大学も、特に難関校になってくると独特のクセのある問題形式、それも二十年以上前から変わらない「伝統的な」試験を課す大学が多い。そのような試験においてはある特定の問題パターンを見出してしまえば対策しないよりも点数が取れるものであるから、合格するために高校生は皆「受験を制する」べく、試験に「慣れる・合わせに行く」勉強をする。そうして、自らを枠にはめに行く、合わせに行く力を持った高校生が大学に進学していくのだ。この愚かな事実が大学側にわかっていないはずはないのだが、おそらく、難関私立では特にそうだろうが、その「学校特有」、「クセのある」ということに酔いしれている、もしくは伝統として守らなければいけないという義務感があって、さらにその特有なことに学習塾側もあやかって「〜大塾」「〜大対策講座」なんてものを設けてしまい、受験生および母親が金を払い続けるものだから、大学側も試験形式を固持し続けているのだろう。基本的に僕は大手塾という存在が受験勉強という概念を形成していると考える。利潤を目的とした彼らの煽りが母親の心配性に火をつけ、受験勉強というものを正当化し、それに従って高校生たちは学問そのものに対する好奇心と引き換えに、戦いを制さなければならないという義務感と焦燥感を植え付け、学問というものを手段に貶めているのである。それが日本人学生の学問嫌いにしてしまい、世界で活躍する人材をうまく育てられない大きな要因となっていると考えられる。
 そこで僕は、受験勉強というものを最小限に抑え、自分の好きな勉強をすることで京都大学に合格しようと、半ば反抗するつもりで学校を休んで自宅で好きなように勉強して、受験一ヶ月前を切った今も、こうしてこの文をパソコンに打ち込んでいるのだ。ちなみにこの文を書くという行為は僕の見出した現代文および英文和訳のための最も効率の良い記述力をつける勉強法である。いや、勉強法というよりは営みだ。僕はこの一年間勉強をするという意識はあまり持たないようにしてきた。認知学的に、経験的にも当たり前だと思うだろうが、好きなことを自主的にやったほうが学習効率は圧倒的に高い。ポケモンに没頭し、400匹を超えるポケモンの名前を初見で覚える生徒が、赤シートをすり減るまで擦り付けてシス単で英単語を覚えようとするのを考えると非常にいたたまれない気持ちになる。
 具体的にどのような勉強法を僕がしたのかはとりあえず合格してからでないと信憑性が出ないのでここでは詳しく書かないが、一例を挙げると国語の記述と和文英訳は手持ちの表現の豊富さと言語運用能力が必要だと思われるから、試験の問題を解くのではなくひたすら好きな本(ただし小説ではなく哲学の入門書やブルーバックスに至るまで、評論文的なものが多かった)を読んで、教養をつけ世界を広げることも同時にやってのけようとしてきた。京都大学進学を決めた9月からは合わせて60冊くらいの本を読んできた。この勉強法を友人に勧めてもやはり、受験勉強をせねばという強迫観念ゆえになかなか実践することが難しいようだ。だが、実際、国語が苦手で二年生の時には模試で偏差値55あたりをうろついていた僕が、京大の過去問で迷いなく美しい回答を書くことができるようになっていることからも、僕のこの試みは成功したと言えるだろう。他の科目についてはまた違う回に書こうと思っているが、この試みによって僕が「受験を制する」ことができたならば、高校生にとって新たなロールモデルとして勉強法を伝授できると思う。(著:2017年1月20日)

好奇心と独学力に重点を置いた教育モデル

本来高校までの教育とは「いかに学ぶか、なぜ学ぶか」を身につけるためにあるはずだ。さらに学ぶことに対する好奇心を伸ばし、人生において学び続けるために、独立した思考と協調性を身につけることが目的とされるはずだ。(最も自分でかんがえる力を持たない従順な国民を作り出したいというならば別だが。)しかし、現在の教育過程ではそれは十分には実現されていない。
 まず、日本の教育における問題点として世間一般で問題に上がることとして、知識重視の詰め込み学習や読み書き重視の英語教育など、多くの問題点が挙げられているが、それ以上に深刻であり、最優先であるのは間違い無く学生の勉強に対する価値観である。日本の教育において学問とはテストのためのものと言っても過言でないほどに手段化している。つまり、本来喜びを見出しうる知的営みである学問が、習熟度を図るための手段であるテストと立ち位置が逆転してしまっているのだ。それは表面上では教師からは見てもわからないし、生徒たちも自覚していないだろうが、僕が客観的に見たところで確実に言えることは、生徒たちにとって学問はどうしてもやりたい!と思う対象では決してないということだ。これは認知学的にも、動機付けという観点から見て非常に非効率であると思われる。これは教育カリキュラムどうこうの問題ではなく、日本社会に通底する価値観であろうと思う。そこには、勉強を必死にやるのは「かっこ悪い」という共通認識があり、「ガリ勉」というのは軽蔑の対象、試験前には最小限の勉強で”コスパのいい”点数を取ることが美徳とされる。この価値観は手段・義務としての学問という価値観を生み、逆もまた成り立ち、負のスパイラルが生み出されている。それに対して中国やインド、アメリカでは多くの学生が自由に学問を楽しみ、大学卒業後は数々のテクノロジーを生み、世界の経済と技術を引っ張っているのだ。日本が優秀な人材を他の国と比べてうまく輩出できず、長い間経済停滞の中にいるのは教育制度、その中でもこの学問に対する価値観というところに根本的な原因があると僕は考える。このスパイラルから抜け出すために、まずは義務教育並びに高校教育の中で学問の魅力と楽しさに気づかせるという事を教育者側が意識し、授業の内容を変えるべきである。興味を持たせるという事に多くの時間を割く事は結果的に生徒の学力につながるのは他国の教育制度を見ても、動機付けの観点からも間違いないのである。
次に、学問に対する価値観と同様、いやそれ以上に重要なのが「独学力」である。現在の教育では、教授型の受動的な授業形式が中心であり、家庭学習さえも何をするかが決められる場合が多い。さらには家に帰ってからも塾に通い、与えられた課題をこなすといったことが一般的な高校生の学習習慣であろう。つまり、生徒たちは三年間にわたって与えられた課題で、かつ答えが決まっているようなものを当然のように文句も言わず、勤勉にこなして、そうやって身につけた「合わせに行く能力」を持って大学に入っていくのである。しかし、大学に入ると突然のように放り出され、自分で何をするかを決め、自立して学習することが求められる。これこそが高校と大学とのギャップを学生たちに感じさせ、結局大学でもテストだけパスして、あとは遊んだりバイトしたりして適当に卒業しよう、という堕落に導くのである。そこでも学問は手段・義務に成り下がり、大学は就職のための手段として捉えられる。しかし、社会に出てからもずっと人生というのは学びの連続である。そこになって初めて彼らの独学力の欠落が露見する。人生において学び続ける力はこの情報社会においては今まで以上に求められる力であり、学ぶ力のないものは機械に職を奪われていくだろう。その力をつけるべき場所こそが高校という場所ではないのか。そのためには現在の受動的な教育を見直す必要がある。しかし、いきなり野放しにするべきでは決してない。学校、教師がすべきことは彼らにある程度の思考、学習方法の枠を与えつつ、家庭学習を通して彼ら独自の独学スタイルを身につけていくことをサポートすることである。高校に入学してすぐは、彼らにはまだ独学方法というのはほとんど身についていないから、ゼロから自分で学習法を編み出せと言われても、彼らは非効率な勉強法を身につけてしまいかねないし、それによって学問に対する興味を失ってしまうかもしれない。だからこそ、この「枠を与える」ということが重要なのである。他校の生徒の話を聞いていても、家庭学習は与えられた課題をただこなすだけで終わるので、自分で考えて学習するゆとりが与えられていないのだ。理想としては、単元だけを指定し、どうやって学習するかは生徒たちが自分で決めるように持っていけるならば良いだろう。
 ここで、これらの「好奇心を持たせる」「独学力を磨く」ことを可能にするための方法と、すべての科目の授業において効果を上げることができ、かつ制度の変更を伴わない一つの授業形式のモデルを提案したいと思う。それは好奇心を伸ばし、自分で考える力を身につけるためのものだ。要約すると、もっとも重要なのは学問の魅力、そしてなぜそれを学ぶかということを三年間を通して教え続け、生徒たちに自分で考える機会をもたせ、教師としてはそれを補助するという形にすることで、自主的に学問を楽しませるということをすべきである。
 まず、好奇心を持たせるための方法を紹介する。その分野がどのようなものであるかの展望がなければ、つまり得体がわからなければそれに興味を持つことは難しい。どこに行き着くことができるのかをある程度知らないと、それを積極的に学ぶ意思は弱くなってしまう。これは人生のでどんな趣味や仕事に対しても言えることである。学問も人生における一つの営みとして捉えるべきであって、義務のようなものであってはならないのだ。ここで、学問の正体を、楽しさを生徒が知るための方法として、どの科目も各学年の初めの数回の授業で、「その科目をなぜ学ぶのか」「どのように活かされるのか」ということを説明する必要がある。おそらくこの初めの紹介がなくても、これまでそうだったように生徒は何も考えず当たり前のように学習を三年間続けるだろうが、「学ぶ理由」を知ることによって、好奇心を持って「なぜ」を追求するようになり、それからの学習においても理由を求めるようになり、それがその後の自立した思考へも繋がっていく。そして、自分の学習するものが義務ではなく、能動的に追求しようと思えるような一つの興味の対象となり、モチベーションも上がる。具体的な授業での方法として、その課目、さらに新分野の授業で初回数回にわたって、1:その分野の概観 2:他分野とのつながり 3:魅力 を説明して興味をもたせ、合間にも 1:実生活で見られる場面 2:大学数学とのつながり を交えてストーリー性を持ったものとして扱いうことで、明確な目的と展望を与えてその分野に対する興味を持たせるとともに、より放射的に情報が入ってくるので記憶の定着と学習の効率化が望めるだろう。
次に、独学力を伸ばす授業形式を紹介する。まず、上記のような方法で興味を持たせることによって自主的な学習を促し、家庭での予習と復習に前向きに取り組ませることを前提とする。彼らの家庭学習は前回の授業で伝えられた、次の授業の単元を自らネットや参考書を用いて行わせる。そして、授業形式としては、自分の調べてきた内容、取り組んだ問題を授業内でグループ形式で発表し興味深いところを紹介しあったり、わからないところを互いに教え合うことをメインに、生徒が主体となって授業を作り出す。講義は補助として授業の合間や終わりに行い、教師はポイントや新たな観点を提示することで彼らの能動的活動に推進力を持たせるために枠組みを与えるという形が望ましい。この形式によって、それぞれの生徒がその分野を自分の好きなように、好奇心をもとに能動的な家庭学習ができ、個人としての勉強法を確立することが可能になる。また、一方的な講義中心の授業で理解が追いつかない生徒も生徒間の話し合いの段階で明らかになり、毎回グループ内もしくは教師の補助によって理解の遅れを防ぐことができるようになる。また、他者と協力しあって問題解決したり自分の考えを伝える能力も身につけることができる。ただし一年生のうちは、どのように家庭学習し、どのような形でグループセッションをするかをある程度指示して、学習のフレームを与えてあげる必要がある。
このような授業形式はすべての科目において有効であると思われる。数学や理科科目ではそのメリットが想像しやすいのではないかと思われる。苦手な生徒を見つけ出して遅れないように教えることが最も必要とされるであろうし、数理系の得意な生徒たちは高度な計算テクニックや関連知識などを調べ上げ、グループで共有するだろう。英語の授業では互いに英語を使って意思疎通を図ることが重要なのは言うまでもない。社会科科目ではこの方法は適さないように思われるかもしれないが、むしろ歴史や地理などの方が、与えられた範囲の中でも自分で興味のある人物の伝記や戦いなどを調べることで流れるように知識が関連して蓄えられる。それをグループセッションの時にそれぞれの生徒が発表するのだ。こうなれば社会科目はもはや暗記するためのものではなく、多くの生徒にとっての趣味とまでなりうるだろう。教師は補助的な知識を提供することでより密度の濃いものにする。
興味を持って自分で取り組み、他者と協力すること。これが日本の教育にもっとも欠けていることだと思う。要するに、教育者側がすべきことは、「いかに学ぶか、なぜ学ぶか」という「枠組み」を提示することであり、生徒が独学力(インプット)と自己表現力(アウトプット)を身につけるための道のりを提示し、自分たちでその道を進むための手助けをすることである。
これに合わせて、大学受験というものも変わるべきであるのは言うまでもない。受験が「答えを合わせに行く」解答を求める限りは能動的な学習を行うことは難しくなってくる。従来の筆記重視の受験勉強から、高校での活動報告、エッセイと言った世界の多くで見られる多様な受験形態を取り入れることで、「受験のために勉強する」といった状況をまず打破する必要があろう。筆記試験であっても、特別な対策のいるようなものではなく、現在の京都大学の入試問題のような自由に記述させるものを始め、個々の「考える力」「表現する力」と言ったものを図るものにしていくべきであろう。しかし、早急に制度を変えずとも、すぐにでも、なぜ学ぶかを説明したり、グループ形式の授業を部分的に取り入れるといったことはできるだろう。是非ともすぐにでも取り入れることができるものが実践され、少しでも多くの高校生たちが、より良い人生を歩むための質の高い教育を受けることができればと思う。次は受験勉強という概念を問い直してみようと思う。
 (著:1月16日)

高校生から見た高校教育ー卒業論文に変えてー

 僕は現在、大阪の公立高校三年生だ。もうすぐ京都大学の受験が控えているが、卒業論文代わりに、内から客観的に見た現在の教育課程の誤謬と、独立して考える力を養う理想の教育像というものについて、この一年間考えてきたことをまとめることにした。僕は、高二の冬くらいから人々を囲う枠のようなものの存在に目が向くようになり、それから高校三年の8月まではまともに勉強もせず台湾、シンガポール、マレーシア、タイとバックパックしてCouchSurfingを通して色んな経験をしたり、講演会で色んな人の話を聞いたり、ヒッチハイク、高校生とスポンサー企業のプラットフォーム設立(早めに失敗したが)などで自分のバイアスを取り除いていき、自分で考える力を養っていった。海外進学をしようと8月頃に急に思い立ち、一ヶ月間でSAT,SATsubjectの対策勉強をしたが、その時に自分の独学力、つまり自分にあった勉強法を矯正していきつつ見出していくという力を身につけた、いや身に付けざるを得なかった。現在の教育課程では教授型に偏った授業で、さらに塾に通う生徒が多く、生徒たちは与えられた課題をこなすだけになってしまっている。本来なら高校というのは大学という独学の場、それに人生でずっと行われる”考えて、学ぶ”という能力を身につける場であるべきはずだ。しかしそれが現在の教育法、先生たちの姿勢ではその独学力というものはまるで身につきそうもない。教育がどうだ、日本は終わってる、だの、他に考える事がないのかと言いたくなるような発言をする人たちが昨今多く見られるが、彼らが高校教育を受けたのはかなり前であろうし、時代によって教育がどうあるべきかといのは変わるので、彼らはその当時としては世界的に見ても良い教育を受けることができた幸せな人たちであろう。また、彼らの考えはあくまで外から見た考えであり、さらにはそういう人たちの多くは他人の発言を繰り返しているにすぎないことがほとんどだ。文科省の人たちも何層ものバイアスによって、さらに見えない力によって考えが歪曲してしまっていることは否めない。だからこそ、この荒んだ教育を中から客観的な分析が少なからず今の社会に必要とされているように感じたのでここにまとめることにした。ただ見た事実を書くのではなんの参考にもならないだろうが、僕は一年間自己教育に励むことも同時にしてきたので、脳・認知科学については教養課程レベルの知識は身につけている。また、独学で社会全科目、生物・化学・物理、並びに大学一年の範囲も浅く広く納めているため、個々の科目についての教育、並びに大学の内容とのギャップと接続法についても、モチベーションやメタ認知といった観点から書こうと考えている。なお、ここで言及する高校教育とは、僕が三年間受けた教育が日本の公立高校全般に大まかには似通ったものであるとした上での一般的な意味での高校教育として書いていく。また、これまで読んだ様々な本の記憶に基づいて分析しているため、参考文献などの提示はできそうにない。現在は煩雑で読みにくい文章となるだろうが、少しでも日本の教育、社会に貢献できればと思う。
(著:2017年1月14日)